昨夜未明

河童はいる

薔薇、その様式と刮目

 池袋の雀荘でアルバイトしていたころ、代走は絶対に引き受けないようにしていた。これも店員の務めではあるのだが、曲がりなりにもルールは知っているにせよ、”運”が凝縮されたこのゲームにおいてもし目の前でエレベーターを乗り逃がすようにフッと負けでもしたら、大概ジョッキ数杯は聞し召しているお客様に何をされるかたまったもんではない。しかも理不尽が硬い血管に詰まりやすい壮年男性のお客様ならなおさら。女だからなんて関係ないのだ彼らは。なのでフロアからお声がかかった際には必ず同じシフトの男性にお願いする。20歳女子大生の頼み事は大体聞き入れられ、ジュン君もツカサさんも客先の卓で勝ったり負けたり維持したりしたが、送り出した仲間の戦績がどうあれ私は胸をなでおろす。目と鼻の先までやってきた豪雨は寸前で温帯低気圧に変わったのだ。思い返せば私の人生はいつもそうで、自分の出席番号の日に嫌いな科目があれば必ず体調を崩したし、居酒屋でどう考えても忘れられている注文があればそれとなく声の大きい友人に問い合わせを横流しした。面倒なことはいやなのだ。

そのかわり代走以外の雑務を私は喜んで引き受け、冷凍のポテトフライをレンジでへなへなにするのも卓の灰皿を交換するのも卓の予約電話をとるのも進んでやった。全自動卓の中心へ牌を滑らすガチャガチャした音、卓の中でそれらが弾け混ざる音、そして役所のような生真面目さで整列した牌が卓上へ並ぶ音。そこへお客様のうめき声や歓声、怒鳴り声が混じり合い、副流煙の霞の中で20の卓が一つの演奏を続ける。わたしはレモンサワーと生ビールをジョッキへ注ぎながら、その様子をドリンクカウンターから眺める。人も麻雀卓も牌も一つの有機物として一体化し、宙に向かって各々喋り出す。自分とかけ離れているものこそ、常に眩しく、神聖である。

 

その日は木曜日で、大学の講義を終えた19時から0時までの勤務だった。のはずだったのだが、23時にとった電話口で、0時から夜勤のニノさんが、ゼエゼエ荒っぽい息遣いを受話器に叩きつけながら熱を出して出勤できないと謝る。それを店長に伝えると、困り切った顔でバインダーに挟んであるシフトの紙をべらべらと勢いよくめくりながらしばらく考え込む。そしていつもの調子のいい眉毛を八の字にして私に言ったのだ。

「マミちゃん、明日って大学?」

北風のような恐怖政治は一切布かず、試験前だと言えば快く休ませてくれ、つまみ食いも見逃してくれ、禿げてはいるがいつも太陽のように明るい小太りの店長に頼み込まれては、もろもろ借りまくっている分こんな時くらい役に立ちたいと思うのが矮小な旅人だ。結局私はニノさんの代りに朝6時までのシフトで続投することにした。0時を過ぎ、風営法でしょっぴかれないようカーテンを閉め切る。平日の夜中にも拘らず徹マンを息巻く大学生のグループ、常連の汚いおじさん4人組、終電を逃し自棄になる強面のお兄さん方、ネットのオフ会というやつなのか年齢も雰囲気もバラバラな謎のグループ。ありがとうごめんね、少しフロア任すねと八の字眉毛で謝り、店長は売上管理や発注のためにバックヤードでパソコンとにらめっこしている。一通りオーダーも終え、新規客も入ってはこない。ドリンクカウンターに手をついたまま黙々と流れる時間、どんどん瞼が重くなるのは必然である。いかんいかん。ひとまずできることからと、オレンジ色のぺらぺらしたエプロンのポケットに洗いたての灰皿をいっぱいに入れ、無人の卓から交換していく。イスとイスの間を縫って、くたびれた蛍光灯から目を逸らす、吸い殻山盛りの灰皿たちを回収。じゃらじゃらと牌のぶつかり合う音、低い話し声と悪態、朦々とたちこめる煙草の煙、全てが調和した空間だった。右後ろのほうでイスが引かれる音がするまでは。「すんませーん」平べったい声が背中にぶつかる。

「はーい」

「ちょっと代走いいすか?」

オフ会の卓だった。ノースフェイスのベストを着た、まばらに髭を生やした中年男性が立ち上がってスマートフォンを耳に当てている。私に向かって頼むといわんばかりに片手を顔の前で立てると、そのまま店外へ足早に出ていく。卓を囲む残りの3人のうち、平べったい声で私を呼んだのは坊主の男で、早く打ちたいとばかりに右手の親指で執拗に牌を撫でている。もう一人の金髪はスマートフォンに目を落とし、もう一人の長髪こちらをじっと見ている。どうしよう、私がこの役割を押し付けられる人間は誰もいない。「はいー」腋窩にじっとりとした汗が溜まるのを感じながら、顔ばかり笑顔をつくった。こんなところで雨宿りばかりの人生へ喝を入れられたくはなかったのに。

 

実際に麻雀卓へ腰掛けるのは勿論初めてではない。初めての麻雀は小学3年の時に児童館で触ったドンジャラだった。同級生に爆勝ちした私はそれを仕事帰りの若き日の父に話すと早速目を輝かせ、丸がピン、竹はソー、漢字はマンだよと学校の宿題なんかより熱心に麻雀を仕込もうとしては母親にもの凄い剣幕で怒られた。覚えれば父は喜ぶし、なんだかいけないことが大人みたいで、ある程度打てるようになった。だけどそこで部活に勉強に忙しい桃色の思春期突入。お父さんが浸かったお風呂の水で私の洗濯物洗わないでよ!…それが幾分和らいだ大学生、すっかり麻雀の打ち方を忘れてしまってはいたけれど、ここまで話せば麻雀自体に偏見も嫌悪感もない私がやけに時給のいい雀荘でバイトを始めたことに違和感はないだろう。

いつも自分が俯瞰から眺める麻雀卓をこうしてお客様と囲む日が来るとは。温められた固いイスに座る。きちんと整頓された手牌を見つめる。自分が負けるのならば全然いい。しかしこれはさっきのお兄さんが築いた城壁だ。攻め落とされでもしたら私どうなってしまうのか。河にはまだ数枚しかない。

「どぞ」

左側に座る坊主に促され、とりあえず余っていた西を捨てる。生ぬるい滑らかな牌を天鵞絨の緑に泳がせる。久しぶりの感覚。懐かしい感覚。

「…わ」

開始5秒で一巡してしまうくらい、とにかく全員手が早い。6本の腕は所有者を同じくしているかのように阿吽のリズムでそれぞれの牌を運び指の腹ででさすり小気味良い音を立て河へ流していく。親である長髪の男性がちらっと私の顔を見る。その視線を頬に感じて、負けじと手牌を整えていく。ノースフェイス早く帰ってきてくれと祈りながら。

基本的に代走はお客様の指示を仰ぎ、ある程度それに向けて打っていく。それが無かった場合、最低限のマナーを守って打ち続けるしかない。対々和好きの私だが鳴くのは我慢する。リーチもかけない。坊主が低い声でリーチを告げる。放銃しないことだけに神経を使い、せっかく集めた3枚の發を切っていく。長髪が振り込んでしまい机に突っ伏す。それにしてもこの3人がどういう関係なのかが一向に分からない。30代の坊主、若いガリガリの長髪、そして私の対面に座る金髪無精髭。あっという間に灰皿は埋まり、時間はひたすら流れていく。特に会話はない。ただ引き込まれるほどに、3人とも見事な指捌きだった。ふと父親のことを思い出す。

いつの間にか手堅く打つのが勿体なく感じるほど楽しくなってきている自分がいた。私はいまこの麻雀卓へ取り込まれて一つの有機体になっているのだと感じる。5分経っても10分経ってもノースフェイスは戻ってこない。暗刻が充実してきた面子を眺めると、席に着いた時とは違う理由で心臓が早鐘を打つのが分かる。ロンは代走のマナーに反するから、どうにか面前自摸和了りたい。珍しく上家の坊主の手が止まる。脂ののった額をさすりながら考え込んでいるようだ。そして存分に思いの重ねられた八索が捨てられる。また元のように時が流れ出した。…その直後だった。先ほどから負けを重ねる向かいの金髪が、發を河へ捨てると同時に、何となく伸ばした反対の手を目の前の牌山に近づけて、何事もなかったかのようにまた離した。意識しないと気付かないくらいの挙動だったがたまたま目につき、不思議な癖があるんだなぁとなんとなく彼の動きを目で追ってみる。…暫くしてもう一度それをした。なんだろう?そしてもう一度その動きがとられたとき、私にはようやくはっきり見えた。自分の手牌から二つの牌を選んで大きな厚い手のひらに包み、目の前に連なる牌の山から重なった二つの牌を抜いてすり替え、良い牌だけを自分の面子へ繰り入れているのだ。それに気付いたとき、息が止まるような衝撃を受けた。真向かいでこんなに大胆なイカサマが行われていることに今まで全く気付かなかったということ、しかしそれ以上にその手つきの洗練に見惚れてしまったのだ。無数の鍛錬の裏打ち、淀みの一切ない真空の覚悟。同一化しているはずの二人は気付く様子もない。どうしようか。もしこれで私が負けてしまったら?ただの代走がそこまで出張る必要はない?金髪は表情一つ変えずに黙々と打ち続ける。私はその顔をじっと見つめる。

「すんません長くなって」

肩にポンと手が置かれてとび上がった。ノースフェイスだ。冬の夜中の香りがするコートを脱ぎながら、分厚い眼鏡を近づけて私の面子を眺める彼に席を譲る。

「おーどうも」

「いえいえ、では」

自分の尻が汗で濡れていた。ノースフェイスはどすんと元の席へ座ると、四人はまた何事もなかったかのように麻雀を再開する。そう、こんなことは本当に何事でもなかったのだ。終始緊張して、新鮮で、動揺していたのは私だけだった。時計はとうに2時半を回っている。夜中の雀荘特有の、駄々をこねるような、不毛を過ごすのが義務であるかのような、眠気と意地の混ざりあった空気が流れている。それでも各卓で演奏は続けられる。だけど、私はもう決定的に以前の自分に戻れないのを感じていた。それは自分みずから一度この空間を味わい、一体化し、ひれ伏してしてしまったからなのかもしれない。神聖は食いやぶられ、同じ唇から生まれるのはなんだろう。この興奮はなんなのだろう。

「あ、お姉さんカレーライス下さい。5皿」

集めはしたもののすっかり忘れていた使用済みの灰皿を片すため、背を向けてバックヤードへ向おうとしたとき、さっきの卓の金髪が間延びした声で注文をほうりなげた。

「5皿ですか?」

「うん。俺らとお姉さんの分」

彼は無表情でそれだけ言うと、その視線をまた手元へ戻した。私はすぐにキッチンへ駆け込んで、炊飯器の中身を確認してからすぐ、ストック棚から銀のパウチを5袋引っ張り出し大鍋でお湯を沸かした。薔薇の花びらが落ちるように音もなく山牌へ翳された手の甲が瞼の奥にちらついた。父の命日はもうすぐだった。午前3時のカレーライスはなにしろ肌に悪いだろうが、この時間まで自律神経ビンビンなのだから別に500キロカロリー程度はかわいい誤差にすぎないだろう。フロアで間延びした声が「国士無双」を宣言する。店中の歓声におどろいて、バックヤードから寝ぼけた店長が慌てて飛び出してきた。