昨夜未明

河童はいる

船は遠く

ハンバーグが嫌いな人間なんて存在しないと思っていた。

初めて雪彦の家の最寄りのスーパーで買い物をし、雪彦の家のキッチンを借りた日、張り切って多めに買い込んだ食材を余すことなく(時には無駄にしながら)使い、クックパッド片手に作った湯気をあげる合挽肉のハンバーグを前にして、彼は「いただきます」と言ったきり暫く黙ってハンバーグを見つめ、それから少し困った顔で笑ってフォークを取り上げた。そして柔らかい肉の楕円の端の方をちょこりと切り取って、分離していく肉脂と、ケチャップやらソースやらを仲直りさせるため必死にフライパンの底でかき混ぜた(お互い納得しないまま中途半端に手をつないでいる)ソースをたっぷり絡めると、口に運んだ。咀嚼は長い時間をかけて行われ、どんどん表情は無くなり、もうそれ液体になってるんじゃないのという頃になってついに意を決したように口の内容物を飲み込むと、フォークを置いて彼はしくしく泣いた。

 

「僕、ハンバーグ食べられないんだ」

 

なんだこれ初めて作ったけど意外といけるじゃんアハハやっぱ手順少ないし誰が作ってもある程度いい感じの出来になるもんだな~今度お母さんにも作ってあげようナツメグとか買ってみたけどハンバーグのレシピでしか見た事ないしこの人使わないだろうし持って帰ろうと思いながらもぐもぐと自分の皿を半分以上平らげていた私は、「私の初めての手料理を彼氏が食べられない」という事実よりも「ハンバーグが嫌いな人間がいる」を初めて目の当たりにして呆然としていた。

彼は何度も「ごめんね」と言い、初めてのおうちデートの価値向上のため「手料理楽しみにしててね」と言い過ぎて引っ込みがつかなくなった私はじゃあそれちょうだいと小食ぶるのをやめて彼の少し冷めたハンバーグをフォークでぶっ刺し自分の皿に引っ越させると無言で平らげた。もう一度ごめんねと泣いた彼は付け合わせのじゃがいもといんげん豆のソテーを三回もおかわりした。

 

 

 

雪彦はやさしい。お風呂掃除も洗濯も皿洗いもなんでもやってくれて重い荷物は持ってくれるし同棲を始めるため引越ししてきた時も住民票?転出届?だかなんだかの手続きも全部手伝ってくれて、飲み会で私の帰りがどんなに遅くなっても駅前まで迎えに来てくれる。スーパー彼氏か。いや、しかもこのやさしさは私だけじゃなく困っている人に平等に降り注がれて、駅の階段前に重い荷物を持っているおばあさんがいれば「持ちましょうか?」、新宿駅で迷っている外国人がいれば「Shall I take you there?」、あの長い睫毛がきらめいて、慎ましい口角がきゅうとあがり、そう、雪彦はスーパー人間なのである。つまり困っている人なら誰に対してもとびきり人がいいのだ。そういう話を友人にすると「自分にだけ優しくしてほしいとか思わないの?」なんて言われるが、いや思うにきまってるじゃんと思う。私は心が狭いので全くスーパー彼女ではない。だけど吐瀉物が苦手な雪彦が、私たちの引越し初日に二人で新居のそばの居酒屋に初めて飲みに出かけ、私が調子に乗って熱燗を7合飲んで真新しいセミダブルのベッドに嘔吐したときは「大丈夫?かわいそう…代わってあげたい…」と目に涙を溜めながらベッドにひろがるゲロの海をシーツで包みカチョカバロチーズのようにして交換し、自分の胃液でべとべとの私の髪をシャワーで洗ってくれたので、実はいつも雪彦は私にとくべつ優しくしてくれているのだなあと知っているのである。そして私はつくづくスーパー彼女ではない。

最初こそ呆然としたものの、スーパーな雪彦の苦手なものを知っているということは特権めいていて気分が良いものだ。ハンバーグがダメというよりは、柔らかくてぐちゃぐちゃしたものが食べられないらしい。とろろ、コロッケ、白子なんかもダメだ。ブロッコリーはグレー(茹ですぎると食べられない)(なぜ)。だけど別に食べられなくても命や生活に何ら支障がある訳でもない。彼はやっぱりスーパーだ。ハンバーグを前にして見せた困った笑い顔を今でもたまに思い出す。

 

  

千代田線から乗り入れた22時半の小田急線はやけに混雑していて、私は吊革につかまって揺られながら、暗い窓に自分の疲れた口紅が映っているのを眺める。ホームに降りると冬の夜の思わせぶりな寒さが親しげに絡みついてくる。寒いのは苦手だ。雪彦はこんな冬の夜でさえいつもマフラーすら巻かずに外出するけれど、私はいつもヒートテック2枚重ねにセーター手袋毛糸のパンツまで完全防備、そして洗濯物の量を増やしてはすすんで家事を引き受けてくれる雪彦の作業時間を伸ばしている。本当にダメな彼女だなあ。帰り道のスーパーで鍋のスープと白菜、あと豆腐なんかを買う。帰りの遅くなったこんな寒い日は鍋に限る。

「ポイントカードお持ちでしょうか」

忘れた。「レシートにつけておきますね」レジのおばさんはそう言って愛想よく笑う。すみませんと会釈しながら、長いレシートにハンコを押しているつやつやとふくらんだおばさんの手を見る。なだらかな稜線を描く手の甲は豊かだ。

 

「ただいま」

家に帰ると電気はついていて、テレビもつきっぱなしで、雪彦だけがいなかった。手に提げていたビニール袋をキッチンにおろして、コートを脱ぐ。暖房で温まった空気が冷え切っていた鼻を抱きしめるせいで、温度差に目の奥がつんとする。「かえったよー」1LDKの間取りはキッチンからすべて見渡せるので、居ないとなればお風呂場だろう。

「おかえり」

生臭い匂いが私の鼻を寝取る。二人で内見に来た時からいいねと言い合った白くてひろいきれいな風呂場はいままさに血の「海」で、その中に横たわっている、おそらくさっきまで生きていたらしい膚色の大きな莢はぱっくりと割れて、中から鮮烈で瑪瑙のようにつるんとした内臓がこぼれている。血の海に立つ雪彦は私を振り返るとちょっと困った顔で笑って、ごめんねと呟く。長い睫毛がきらめいて、つつましい口角がきゅうとあがる。「今日はね、お鍋だよ」私は洗面台の蛇口をひねる。レジのおばさんのものとは似ても似つかない、冬の外気で乾いた貧相な手を温水で濡らして、真っ白いハンドソープをあわ立てて指の股まで執拗にごしごしと擦る。私の手はちっとも汚れていないのに。きちんと折られたチノパンの裾、柔らかいシャワーが濃い赤をまだらに薄める。